弥生坂のおばあちゃんの物語

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「来年の夏になったらね、庭に植えた苺を食べに来てくださいね。小さい庭だけどちゃんと育てるからね」

おばあちゃんは私にそう言った。私も楽しみにしていますと、来年の約束をした。だが、その約束は果たせなかった。その時以来、おばあちゃんと会う機会がなくなったからだ。

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弥生坂の道路が細くなった坂道。このあたりから勾配が急激にきつくなる。この歩くのがきつい坂道におばあちゃんは住んでいた。

そのおばあちゃん、根本トキさん(仮名)と出会ったのは今から20年近く前だった。仕事上のお客さんからの紹介、というより依頼で母親のトキさんが住む家を探して欲しいとの話が始まりだった。動機は「母親が年を取り、あの坂道を登るのが大変になってきた。病院に行くのも辛くなってきたので坂のない所に家が欲しい」とのことだった。

そこで私は早速トキさんの自宅に赴いた。トキさんの家は弥生坂の道幅が細く勾配が急になったある場所にあった。トキさんには3人の子供がいた。女性2名と男性1名だった。今回の依頼は女性2名からのものだった。

自宅にはトキさんと息子さんの2名が暮していた。二人とも仕事をしていなかった。息子さんは引きこもっているようだった。新居にはこの2名が住む予定だという。自宅はいつ建てられたかわからない程古い平家の小さい家だった。外壁は板張りのよくある古い家だ。見るからに隙間だらけで、冬はとても寒いという。

だいたいの希望条件を聞き(といっても殆ど大きな条件はなかった。せいぜい部屋数と予算だけだった)、早速物件探しに取り掛かった。「田中さん(私の事、仮名)にお任せしますから」と、トキさんは言ってくれた。不思議なことだが、なぜか細かな注文をつけるお客さんよりも、自分を信頼してくれて任せてくれたお客さんの方がいい物件と巡り会えるものだ。別に差別しているわけではない。仕事だから頼まれたら全員満足していただきたい。だが、本当に不思議な偶然だが、全面的に任せてくれるお客さんにはいい物件が待っているのだ。

トキさんに紹介した物件は、某大手ハウスメーカーの注文住宅で建てられた「平らな場所」にある小さな庭がある築年数のさほど経っていない好条件の中古住宅だった。プロとしても自信を持ってお勧めできるものだった。スーパーも近く、娘さんたちの家からも近かった。

トキさんは一度見て気に入り購入を決めてくれた。すぐ契約に向けての業務が始まった。

そこに至るまでの間にトキさんのことを色々知ることができた。まず、3人目の息子を出産したあと船員だった夫を海難事故で亡くし、トキさんは水産加工工場で働いて子供たちを育てたこと。そして、中古住宅は本人の預金で全て賄ったこと。

と、文字でまとめてしまうと簡単に終わってしまうが、その中には現代では信じられない生き様があったのだ。トキさんがご主人を亡くしたのは昭和20年代だった。当時の女性の地位は今では考えられないくらい低く、賃金も安かった。もちろん生活保護などの社会保障制度なんかあるわけがない。娘さんの話によると遺族年金などもなかったという。つまり、生活費は全部トキさんの工場勤務のささやかな賃金で賄われていたのだった。夫が家を残してくれたのがせめてもの救いだった。

だが、日々の生活が苦しいのには変わりがない。自分がもし贅沢や遊びがしたくなったら、ほんの僅かの出費でも子供たちにその影響が出る。まだ当時はトキさんも若かった。だが全てを諦めた。全てを我慢した。残された子供を育てるためだ。

そのうち、贅沢をしない生活が普通になった。いや、この表現は間違っている。欲望を持たない生活が普通になったのだ。これは僧侶の修行を実生活で行ったのと同じだと思った。トキさんは頑張って貯金をしたのではなかった。子供にお金がかからなくなっても欲を持たない「普通の」生活を続けていたら自然にお金が貯まっていったのだった。実際、1500万円以上の住宅を購入しても贅沢をしなければ暮していける預金が充分残っていた。もちろんトキさんには充分過ぎるお金だった。

トキさんの話し方はいつも穏やかで静かだった。私がお会いできた恐らく初めての「悟り」を開いた人であった。どんな話にも不平不満や愚痴を言わず、静かに受け入れていた。だが、一度だけトキさんの口調が強くなった時があった。娘さん二人とトキさんが私の車に乗り、話をしている時だった。

娘さんは「田中さんはバリバリ仕事をして頼もしいですね。弟も田中さんくらい仕事をしてくれていたら」と言った。弟は引きこもり状態だった。私は困った。違う、私は全然立派な人間ではない。そう思った時、トキさんは「あの子は素直でいい子です」と強く言った。車内は静かになった。その通りだ、トキさんは全てをわかっている。本当にトキさんの言葉は重い。

中古住宅の契約業務は順調に進み、残金決済と物件引渡しの時がやって来た。売主の希望で残金は現金(お札)で欲しいとのことだった。1500万円以上の現金を用意して私たちが指定された銀行に行き、テーブルの上に現金を重ねた。どうぞ確認してください、と売主に諭すと売主は手を震わせながら札束を数えた。無理もない。誰でも普段は目にすることのない金だ。ところがトキさんは何事も無かったようにいつもの涼しい顔をしていた。まるで住民票の移動の手続にでも来たかのような穏やかさだった。売主とは全く対照的だった。

その後しばらくしてからトキさんと息子は新居に引越しした。新居に訪問するとトキさんは笑顔で迎えてくれた。小さいながら庭を持てたことにとても満足していた。そして、家を買おうと決めたのは、娘たちが心配してくれたので迷惑をかけたくなかったからだと打ち明けてくれた。

そして、苺を植えるから来年食べに来てね、と私に言った。だが、その約束は果たされなかった。私は翌年の春に転勤となり函館を離れた。その後、帰省してもプライベートなことで色々忙しく、トキさんに会うことができなかった。いつしか、私は日常という魔物に飲み込まれてトキさんのことを思い出すことが少なくなった。そして、函館に戻ったある時、新聞のおくやみ欄でトキさんの死亡を知った。

私は悔やんだ。何と罪深い人間なのかと自分を呪った。どんなにいい顔をして生きていても、所詮自分なんてこんなものだと思った。トキさんに追いつこうと思っても決してできないとつくづくわかった。

私の脳裏には、苺を植えるために土を耕して微笑むトキさんが今でも鮮やかに残っている。その姿を思い浮かべる度に自分の至らなさが悔しくて悔しくて涙が出そうになる。







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コメント(2)

物語を読ませていただき、大変感銘を受けました。
私自身も弥生坂の急な坂の上に少年時代に一時住んでいたこと
もあり、身近に感じるお話です。(以前コメントした者です)
西部地区の空き家になった家、今は更地になってしまった家の
それぞれにこの物語のようなドラマや人間模様があったことと
思います。
もしそのようなお話を他にお聞きしていることがありましたら
紹介していただけるとうれしいです。
また何気なく空き家を見ながら散策する観光客の方にも紹介
できればと思いました。今春、弥生小学校の悲しい姿を見ま
したが、市が認可した建物以外にも西部地区には人の歴史
を感じ取ってもらえる建物がまだあるという事を伝える一助
になるような気がしました。ありがとうございました。

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