幕末おろしや留学生
宮永孝
筑摩書房(ちくまライブラリー)
1991年
幕末、開国後の外国交際を始めて間もない徳川幕府がオランダ(1862年)に続いて送り出した海外派遣留学生だ。この一行の中には箱館奉行所から1人が加わっていた。しかもリーダー格。
山内作左衛門(箱館奉行支配調役並 30歳)。
本書の表紙に一行が留学先のペテルスブルクで撮影した集合写真があるが、その中央に座る、随分現代的な相貌の人物。
実はもう一人箱館奉行所から 志賀浦太郎(奉行組同心 22歳)が加わる予定であったのだが、出発間際に突然取りやめになった。ちなみに、このロシア留学の企て自体、この志賀がゴシケビッチに要請したといわれている。(なお志賀は翌年、幕府が派遣した「カラフトの国境画定交渉使節」団(代表小出大和守)の随行(ロシア語通訳)として念願の訪露を果たした)
さて、この留学生のその後は順調とはいかなかったようだ。ロシア側の手違いもあったようだが、語学習得なども思うに任せず、しかもリーダーの山内が1年後には病気を理由に単身帰国。そしてさらにその翌年の慶応4年(1868年)には、大政奉還後の幕府の命で、他の英・仏・蘭の留学生と同様に帰国することになる。
その後の日ロ関係が必ずしも善隣友好とはいかなかったこともあり、他の国への留学生に比べてもロシア留学生のその後は恵まれず、「一人の有名人も出さなかった」とさえいわれる。
本書はこうした「不幸な顛末」にいたるロシア留学生の姿を限られた資料から跡づけたもの。
幕末に単身密航し、ロシアで重きをなした「怪人」橘耕斎や、上記の小出使節団などの事績も含め、幕末のロシアと日本の関係を読み解くのに適当な書ともなっている。
五稜郭に箱館奉行所が開設されたのが元治元年(1864年)、留学生派遣はその翌年。幕末の最初の本格的な対ロ交渉の舞台が、今年復活した箱館奉行所であったことに改めて気付くと、奉行所の見学にも少し予備知識が増えるというもの。(そういえば、今回復活した奉行所内の展示室のひとつに「調役(しらべやく)」の部屋がある。山内の執務はここで行われたのであろう。

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