2010年12月アーカイブ

 前回に続いてペリーの海図を仔細に眺めていきます。この海図はペリーの第2回目の日本訪問(1854年)の際に、横浜で日米和親条約を締約したペリーが、条約で開港場とされた箱館を早速に検分に訪れ、約3週間の滞在中という短期間の調査の結果作成されました。2年後、ペリーは米国議会に対して大部の報告書を提出しますが、その中にはこの海図をはじめ日本各地の10数枚の精密な海図が付録として挟み込まれていました。

 

2011calendar07-09.jpgのサムネール画像



朝日新聞社が主催する大佛次郎賞の37回目の受賞が、渡辺京二氏の「黒船前夜~ロシア・アイヌ・日本の三国志」に決まった。

150+サイトの本の紹介で取り上げたものだけにひときわ嬉しい。

函館と北海道の歴史を理解する上で必読と思われる画期的視点を提供。そしてほとんど小説的な「面白さ」がこの書の身上だ。未見のかた、この機会に是非。

kurofune.jpg

 

7-9月のぺりー海図をZoomInしてみる。
まず、全体の図面から5点のポイントを選ぶ。
①函館港の中央部分、②現在の船見町、外人墓地のあたり、③現在の西ふ頭付近、そして④日の出町付近、⑤亀田町付近

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今年の古地図カレンダーを素材に、話題を提供。第一回は五稜郭の設計図面。

もともとはフランスの軍艦が箱館に寄航した際に伝えられたとされる、当時の欧州で流行中の築城方式。もちろん日本では初めてだったので、各所に日本式の工法や設計が取り入れられた。
 
初期の設計図とされるのがこれ。

Goryou_C.JPG

外側に張り出した部分が全部で5X2=10か所あり、このうち五稜郭の本体部分からは濠を隔てた突出部は半月堡(馬出塁とも)と呼ばれるが、これが上記設計図の5箇所から最終的には正面(南向き)の1か所に削られている。
 
下記の図は今回のカレンダーに使われた、ほぼ最終段階の図面。

goryou_1.JPG
その後も幾度かの設計変更がなされたものらしく、実際に竣工した五稜郭は上記の図とも微妙に異なる。
例えば、三箇所の出入り口部は上記の図面ではアーチ状のトンネル。南側の入り口付近を拡大してみると、

goryou_a.jpg

実は、ここがアーチ状のトンネル構造だったという説には裏付けがある。同年代に施工された弁天台場である。下がその写真。これと同様のものが五稜郭でも計画されていたという。守備能力の点ではこちらが断然優位。

Benten.JPG

そして、五稜郭の方は最終的には切通しに変ってしまった。財政逼迫が主な理由とされるが、弁天台場が後に壊されてしまったので、こういうアーチ型トンネルを今日確かめることが出来ないのは残念。五稜郭の古写真で南面の切り通しをみる(写真左奥)。現在は藤棚がある辺り。

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古地図、写真のデータはすべて函館市中央図書館・デジタル資料館


幕末遣欧使節団
宮永孝
講談社学術文庫
2006年3月
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函館に2010年7月、復元オープンした箱館奉行所。スタートから2か月足らずで入場者が10万人を超える人気という。
しかし、いまだに「五稜郭=箱館戦争の舞台」というイメージが先行して、奉行所がどんな目的で、あの場所あの時代に設置されたのかについての基礎的な理解が深まるには時間がかかりそうだともいう。

先日も、ある講演会で日本近代史の碩学の榎森先生もそのことに触れて、「箱館奉行文書」などの解読など、当時の史料の精査をもっと進めるべき」と述べている。
実は箱館奉行所は建築物として五稜郭に存在したのが僅か7年、そのうち「箱館奉行」としての職責を果たしたのは僅かに4年(1864-1868)。しかし実は、「箱館奉行」という徳川幕府の職制は1802年の蝦夷奉行の設置(第一次幕府直轄)に遡るもので、日本の北辺の防備、外交拠点として通算50年、重要な役割を果たした。そして、1854年の第2次幕府直轄時代からの箱館奉行だけでも12人が就任しており、多くが当時の幕閣にあっては優秀な開明派だった。それは後に幕府が欧米に派遣した外交使節団の何れにも必ず一人以上の箱館奉行経験者が交じっていたことでも証明される。

本書は、初代の箱館奉行を務めた竹内下野守保徳を正使として文久2年(1862年)欧州6カ国を歴訪した欧使節団の記録。著者の文献調査・フィールドワークによる丁寧な解説によって、往時の日本人武士が初の海外経験の中で何に驚き、感心し、そして国威を発揚すべく苦心したかがまざまざと描き出された。
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