函館市電の歴史

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函館の路面電車は今を遡ること113年前に開業した「亀函馬車鉄道」へ遡ることが出来る。


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◇地蔵町(現在の末広町)を走る馬車鉄道の様子(函館市中央図書館蔵)

そもそも馬車鉄道とはレールの上に載った客車を馬がけん引するものであり、亀函馬車鉄道は東京馬車鉄道(現在の東京都交通局)の技術指導を受けて敷設され、軌間や施設は東京馬車鉄道に準拠し、首都圏の馬車鉄道や路面電車で広く採用されていた1372mmという特殊な軌間が東京以北で唯一採用されることとなったが、二頭の馬が客車を牽く姿は「ハイカラ」だったに違いない。

◎馬車鉄道時代の略年譜
1897年(明治30年)
・12月12日
弁天町(後の函館どっく前)~東川町(後の東雲町)間、開業
1898年(明治31年)
・1月9日
十字街~鶴岡町(後の函館駅前)~ 東川町間、開業
・8月19日
函館馬車鉄道に改称。
・9月29日
鶴岡町~海岸町間、開業。
・10月21日
海岸町~亀田間、開業。
・12月12日
東川町~湯川間、開業。
現在の函館市電の路線の原型はおおむねこの時期に完成。
1903年(明治36年)
・7月8日
海岸町 - 亀田 間が廃止。(1904年(明治37年)4月29日廃止との異説あり)

 

◎馬車鉄道から路面電車への転換期
明治末期、国内どころか世界的にも市街地を走る馬車鉄道は馬糞風やスピードの遅さから路面電車への転換が相次いでいた。
このころ、函館では大沼での水力発電事業と市内近郊での配電事業を経営していた函館水電株式会社(現在の北海道電力)が、1911年(明治44年)10月1日に函館馬車鉄道を買収。これは発電時に余った電力を用いて路面電車を運行し、事業の新たな柱にすることが主目的だったらしく、買収後は電車の運行拠点となる新川車庫や変電所の建設、架線や車両といった資材の発注・中古電車の取得などを含めた準備が2年ほどかけて行われた。
10-pc000307-001.jpg◇開業準備中と思われる新川車庫の様子を納めた絵葉書(函館市中央図書館蔵)

写っている車両は10型1号。

1913年(大正2年)6月29日、北海道初の路面電車となる東雲町(後の労働会館前)~湯川間の電化を皮切りに、区間によっては軌道移設や付け替えなどが行う大改良と電化工事が1年ほどかけて随時行われ、10月31日には弁天町~十字街~東雲町間が電化、翌年の5月1日には宝来町~谷地頭間の新線が電化開業。10月31日には十字街 ~ 函館駅前~海岸町、函館駅前~松風町間が電化され、全線が路面電車への運転に切り替わった。
西部地区や十字街・宝来町界隈には道路幅員の関係で上下線が別々に敷設されていた区間が存在し、折り返しの簡略化を兼ねて終端部が「コの字」型になっていたことが古地図や当時の路線図からも見て取れるが、上下線が別というのはどうやら不便だったらしく、明治期の大火を契機に行われた区画整理による道路幅員の拡張に合わせ単線区間が統廃合されたほか、電化の進捗に合わせて軌道が切り替えられ複線化されたことが古地図を見るとよくわかる。また、昭和9年の函館大火の後にも区画整理等に伴い軌道の切り替えが行われた。

なお、馬車鉄道時代の動力源であった馬は家畜市場で二束三文の値段で売り飛ばされ、客車も大正4年に開業した登別温泉軌道に売り飛ばされて第2の活躍をしたらしい。

◎発展する路面電車
1915年(大正4年)9月1日から、大門前(現在の松風町)~湯川間に貨物電車の運転が開始され、1921年(大正10年)には函館の路面電車で初めての大型ボギー電車50形の運行が開始された。

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◇湯川終点を発車した50型47号。(函館市中央図書館蔵)

10-10-IMGP2128.jpg◇貨物電車はおそらくこんな感じの車両だったはず・・・。(横浜市電保存館で保存されている10型貨物電車)

※電車ではなく無動力の貨車であることが近年判明しました。【2013年1月8日追記】

1925年(大正14年)10月1日には海岸町~亀田(後のガス会社前)間が開業するなど路線の拡充も並行して行われた。
◎新川車庫火災
1926年(大正15年)1月20日午後11時ごろ、新川車庫火災が発生。当時所属していた電車のうち貨物電車を含む31両が焼失。だが、焼失した車両の台車は新たに作られた車体と組み合わされて再生されたが、それでも不足する分は東京市電気局から廃車寸前で車庫の片隅に置いてあった車両を急きょ20両購入し急場をしのいだが、あまりのボロさに乗務員や乗客からクレームが出たらしく、車体を新たに作り乗せ換えたという逸話がある。実はこの一件が北海道で初めて電車が作られたということはあまり知られてはいない。ただ、惜しいことにそれらの車両は昭和20年代までに大半が廃車され、その姿は写真でしか見ることができない。
1932年(昭和7年)10月14日、新川車庫火災で罹災した貨物電車を復旧した車両も含めた貨物電車が全車廃車され、17年に渡った貨物電車の営業が終了。以後は旅客輸送のみの営業となる。

◎函館大火による罹災と運行再開
1934年(昭和9年)3月21日に発生した函館大火により、48両の電車と新川車庫、そのほかの運行に必要な諸施設が焼失し、全線運休。

10-pc000763-005.jpg◇大火で罹災し焼け落ちた電車の残骸(函館市中央図書館蔵)

3月28日 焼け残った車両及び変電所を用い、一部路線の運行を再開。

3月31日 全線復旧。

焼失による車両不足は東京市電気局(現在の東京都交通局)より中古電車(ヨヘロ型)を購入し、市営化以降も客車として運用されたが、一部は昭和12年に函館市電の冬の風物詩であるササラ電車に改造され、2010年現在も2両が在籍している。

7月28日 函館水電は帝国電力へ改称。

大火で焼失した新川車庫の代わりの車庫は2カ所用意された。

一つは駒場車庫である。当時、駒場車庫の敷地には帝国電力のグラウンドがあり、迅速な復旧のため車庫用地に転用したようである。

もう一カ所は1936年(昭和11年)2月15日に完成した柏木車庫(柏木町電停付近。現在は函館まるかつ水産柏木店及びホリデイスポーツクラブの敷地及び駐車場)である。函館市への移管後は交通局の本庁舎が置かれるなど、運行の中枢として機能していた。

 

◇半鋼製電車「300型」登場

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◇デビュー当時の300型301号

同年、大火の教訓を踏まえた半鋼鉄製電車「300型」が地元の函館船渠(現在の函館どっく)で製造され、1970年(昭和45年)まで運行された。一部は花電車へと改造され、2010年現在は3両が在籍している。

◎紆余曲折の末の市営化
1940年(昭和15年)8月6日、帝国電力は大日本電力と合併。このころから函館市は路面電車とバス事業の市営化の打診を始める。

1942年(昭和17年)10月1日 大日本電力株式会社、道南電気株式会社へ軌道・バス事業を譲渡。

11月6日 道南電気株式会社は道南電気軌道株式会社に改称。

この頃も市営化の話し合いは続く。

1943年(昭和18年)3月16日 道南電気軌道と函館市が軌道事業とバス事業の譲渡契約が締結される。

11月1日 路面電車事業とバス事業が函館市への譲渡が行われ「函館市役所交通局」が発足。

12月22日 「函館市交通部」に改称。

1945年(昭和20年)7月9日 鮫川(後の湯の川温泉)~湯川間、廃止。終戦まで1か月と6日前のことだった。

なお、戦時中には男性乗務員が兵役等で多数職場を離れたため、女性乗務員が函館市電の屋台骨を支えた。

◎函館市電の戦後
1945年(昭和20年)8月15日の終戦ともに、函館市電の戦後が始まる。

旅客数も増加の一途を辿り、1948年(昭和23年)~1950年(昭和25年)にかけて戦後初の大型ボギー電車「500型」が就役し、函館市電の大型化が図られることとなる。

そんな中、函館駅前から亀田の間は戦前からの「盲腸線」であったが、将来の人口増加を見越して「環状線」の敷設を開始することとなる。
1950年(昭和25年)9月14日 亀田(後のガス会社前)~宮前町間が開業。

1951年(昭和25年)7月1日 宮前町~五稜郭公園前間が開業。後にガス会社周り線と呼ばれる環状線が全通。

◎函館市電の黄金期は続く
1952年(昭和27年)10月1日 函館市交通局(公営企業)が発足。

亀田(後のガス会社前)から五稜郭駅前を結ぶ「五稜郭駅前線」を敷設することとなる。
1954年(昭和29年)11月21日 亀田~鉄道工場前間、開業。

1955年(昭和30年)11月27日 鉄道工場前~五稜郭駅前間が開業。国鉄函館本線と並行する市電路線が完成することとなり、大野新道~鉄道工場前間には国鉄の引き込み線との平面クロスがあった。
1959年(昭和34年)9月2日 湯の川温泉~湯の川間が開業。1945年に廃止されてから14年後の復活であり、現在のところ最後の延伸区間となっている。

◎将来を見越して・・・。
1966年(昭和41年)5月25日 梁川車庫(旧・函館西武、現・パボッツ所在地)が完成。これにより駒場・柏木・梁川の3車庫体制となるが、その後、モータリゼーションの波は容赦なく函館市電を襲うこととなる。


◎縮小の時代

マイカーの普及は函館市電の利用者数が減る一つの要因となったのは間違いないと言えるだろう。そのため、函館市交通局では1968年(昭和43年)6月1日から3系統(駒場車庫前 - 函館どつく前)でのワンマン運転を開始し、1970年代初頭までに全ての系統がワンマン運転となり、車掌乗務が廃止された。
1973年(昭和48年)10月1日、梁川車庫が閉鎖され、車両数が75両から58両に削減された。車庫開業から7年後に閉所することとなってしまったのは利用客数減少が一番の要因と言える。跡地は民間に売却された。

1974年(昭和49年)1月9日 函館市交通局が「交通事業財政再建団体」へ指定され、より一層の経営合理化を進めることとなる。

4月19日 交通局の本庁舎が置かれていた柏木車庫を閉鎖。交通局は深堀町のバス車庫構内(競馬場前電停北側。現・函館競馬場駐車場)に移転。車庫機能は駒場車庫のみとなり、柏木車庫の跡地も民間へ売却されたのは言うまでもない。


◎不採算路線の廃止と一層の経営スリム化

1978年(昭和53年)11月1日 ガス会社前~五稜郭駅前間、廃止。五稜郭駅前線は全線開業から19年で姿を消すこととなった。

12月8日 深堀町バス車庫敷地売却に伴い、管理部および運輸部が深堀庁舎から函館市末広町分庁舎(元・丸井今井函館店、現・函館市地域交流まちづくりセンター)の4階へ移転。


青函博覧会が開かれた1988年(昭和63年)3月31日、函館市交通局は交通事業財政再建団体の指定が解除されたのだが・・・。

1992年(平成4年)4月1日 東雲線(宝来町~松風町間)廃止

1993年(平成5年)4月1日 ガス会社周り線(函館駅前~ガス会社前~五稜郭公園前)廃止。現在の2系統体制に落ち着く。


◎業務の集約は続く
2002年(平成14年)10月7日、函館市交通局管理部および運輸部が末広町分庁舎の閉所に伴い駒場車庫構内に新築された管理庁舎へ移転。車庫と交通局が一緒の敷地に置かれるのは1974年以来のこと。
◎さようなら市営バス
2003年(平成15年)4月1日 函館バスへ市営バス路線6系統を譲渡し、60年に渡った市営バス事業が廃止された。この頃から単年度黒字が維持されるなど、経営状態が以前に比べて好転している。
◎新たな時代へ
2007年(平成19年)3月20日、函館市電の将来を担う超低床電車らっくる号こと「9601号」が導入され、2010年にも1両が増備された。これに伴い、停留所のバリアフリー化も進められている。

◎交通部の名称が復活

2011(平成23年)年4月1日、交通局が水道局と統合され、函館市企業局が発足。交通局は交通部に改組。(2013年1月8日追記)

どの時代も函館市民や観光客の足として走る函館市電の歴史はこれからも続く。

なお、一時は赤川方面や函館空港方面への延伸が検討されたものの、費用面の問題や競合するバス路線との兼ね合いなどもあり、延伸計画は現在のところ全くの白紙となっている。

とはいえ、近年の路面電車業界では富山市のコンパクトシティ構想が注目されている。詳しいことはリンク先をご参照ください。

一例を挙げれば富山市内軌道線の中で合理化のため廃止された区間を事実上敷き直し、富山都心線(環状線)を運行しているほか、2014年の北陸新幹線の開業に合わせ、かつてのJR富山港線をLRTへ転換した富山ライトレールと富山地方鉄道市内線を接続する計画が進んでいる。

函館市電の将来は市民がいかに利用するかにかかっている気がする・・・。

【2011/01/17 部分訂正、2013年1月8日追記】








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